ヒューマントラストシネマ有楽町で『はじまりへの旅』を観てきた

ヒューマントラストシネマ有楽町 > スクリーン2 > 座席E-6 にて、18:35の回を鑑賞。

事前予告では、サバイバル一家の活動劇な印象を持っていたが、実際は全く異なる、そこそこヘビィな内容だった。

ボウドヴァンが鹿を狩りその心臓を食べることで、大人の仲間入りをしたところから物語は始まる。ベンの子供たちが計6人、アメリカ北西部の山奥で自給自足の生活を送っていた。そこでベンの妻・レスリーの死が伝わる。レスリーの父親は、彼女の死についてベンが主原因だとし葬儀の参列を拒む。遺書を受け取っていたベンは、仏教徒である彼女の荼毘に付して欲しいという彼女の意志を尊重すべく、俗世間を全く知らない子供たちと葬儀の行われるニューメキシコの教会に向けて旅をするのだった。

ドタバタしながらも旅が進行していくロードムービーかと思いきやそうではない。レスリーの死は双極性障害による果ての自殺だし、子供たちは10年間ほど俗世間から切り離された生活を送っているためサバイバルの技術には長けている、だが社会で生きていく術(社会の中でのサバイバル技術)は皆無だし、そんな彼らの当たり前が旅の中でガラガラと幾度となく崩れ去っていく。

この映画内では、マインドコントロール、犯罪行為、社会不適合な行動といった、客観的に見ても嫌悪感が生まれるような状況が多々あるが、前述の通り視点を家庭内に向ければ正しい行動ということになる。原題『Captain Fantastic』からも読み取れるように、この映画は子供の父親であるベンの旅である。ベンはレスリーの真意とともに旅を終えた。ただし、家族愛は変わらず社会と融合をはかれるような次の生活が始まる。

親が子を思う気持ちは、文化や思想が違っても同じであるが、その気持ちの方向性が少しずれているだけで一般社会側から見て歪んだ存在として見えてしまう。でも、その気持ちが親子の中で通じ合っているならば、閉じた世界の中では正しいことになるのだが、そこには社会の規則や法制度が絡んでくる。

当たり前の今の日本での、そして自分の家族のあり方と、ふと照らし合わせてみたのでした。

公式サイト: はじまりへの旅

私的お気に入り度: (5.5/10)

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